柳澤紀子/エッセイ

エッセイ

「エッセイ」と「折々の記録」は昭和六十二年(1987年)静岡新聞における連載など、これまでに新聞・展覧会図録や雑誌などに掲載された比較的初期のものから抜粋です。

《1》林武先生のこと

 この六月、ポルトガルのリスボンで個展を開いた。その機会に芸術家養成学校で版画を教えてほしいとも言われていたので、出発前のある日、準備のために久しぶりに母校の東京藝術大学を訪ねた。緑の上野公園を横切っていると、途中で、大学の構内にあった奏楽堂が移築されているのを見つけた。美しい姿も昔のままで、コンサートも現に行われているという。こうした生きた姿でこの古い建物が大事にされていることは本当に嬉しかった。

 昭和三十四年四月、私たちの入学式は奏楽堂で行われた。床が抜ける恐れがあるということで、父兄はスペースは充分にあるのに、入室を許可されなかった。学長の小塚慎一郎先生があいさつをされた。「芸術家は形式張った式典は嫌いでしょうが、三十分だけ我慢してください。」言われたとおりの、おそらく日本一短い粋な入学式だったことを思い出し、笑いが込み上げてきた。

大学三年生になって念願の林武教室に入った。先生は週二回教室に来られて、生徒一人一人の作品に自ら筆を入れて熱心に指導してくださった。独自の絵画論の話に夢中になって、煙草の火が指まで来ても気付かず、何度も火傷をされた。当時先生は中野に住んでおられたが、このご自宅にも良く学生をよんでくださった。お盆とクリスマスとお正月が一緒に来たような飾り物のあふれた応接間でごちそうの大盤振る舞いをしてくださった。

 時に先生のアトリエをのぞかせていただいた。おびただしい書きかけの作品群、床や壁に飛び散った原色、禿びた筆の山、絵具の盛り上がったパレット。目に入るすべてに先生の創作にかけるほとばしる情熱とすさまじい執念が感じられて圧倒された。これは将に戦場だ!そうだ、そもそも芸術は戦いなのだ。 林武先生は何と言っても、若い私にこのことを最初に教えてくださった先生であった。
〈『窓辺』静岡新聞(夕刊)1987年8月4日〉

《2》銅版画との出会い

 初めて銅版画の手ほどきを受けたのは、大学三年生のときであった。版画教育自体が草創期で、教室も音楽学部の建物の片隅を間借りし、設備も古いプレス機一台と最小限の用具でスタートしたばかりであった。

 当時の油絵科の雰囲気は、どちらかというとドロ臭いものだったので、パリ留学から帰国されたばかりの版画家、駒井哲郎先生が教室に現れたときは、先生のいかにも知的で都会的なセンスに学生はみな魅了されてしまった。長身の先生の尖った横顔に私たちは素早くヨーロッパの匂いをかぎ取り、そんな先生を通じてますます銅版画に熱を入れることになった。

 刷りのデモンストレーションで先生は、長く細い指先に銅版を載せて震える手でインクを拭かれるのだが、 その仕草がまた素敵で無理をいって何回も刷っていただいたりした。 また先生は「わが内なるオディロン・ルドン」と呼んで、ルドンへの尊敬を私たちに伝えられた。ご自身が所蔵されるルドンの画集やオリジナル作品まで見せて下さり、「どうして黒白だけでこんなに豊かな色が表現できるのだろうか。これはルドンの芸術性の高い精神性の現れです。」と独特の渋い声で静かに語られた。

 私が自分の処女作を藝大際に展示したら、この作品をたまたま来学された作家の吉屋信子先生が買って下さった。うれしさのあまり、 そのお金でニードル針を三本買い求め、それ以来銅版画の虜になってしまった。

 気が付いてみると、あれからもう二十五年がたった。囲りを見まわすと、ほとんどの版画家は、直接駒井先生の指導を受けたか、また先生から大きな影響を受けている者ばかりと言っても過言ではない。黒一色に閉じ込められた銅版画の世界は地味で忍耐のいる仕事であるが、「銅版画は内心で演じられるドラマを表現するのに最も適している」という駒井先生の言葉がやっとこの頃分かりかけてきたように思う。
〈『窓辺』静岡新聞(夕刊)1987年8月11日〉

《3》ニューヨークの工房で

 昭和四十六年から四年間(1971〜1975)、主人の転勤でニューヨークに住んだ。現代美術に関わる人間としていつかは行って見たかったニューヨーク、しかもそこで生活が出来るという幸運に私は興奮して日本を発った。

 ニューヨークでは、マンハッタン島南端の対岸にある街ブルックリンハイツに住んだ。そこは古い家並みの美しい街ウォール街に勤めるバンカーや作家などの芸術家が好んで住んでいた。

 しかし、 私の制作条件は決して甘くなかった。私たちが借りられた住まいは、三部屋の狭いアパートだった。古道具屋で頑丈な机を買って来て、アパートの入り口に置き、ここを仕事場とした。銅版の腐食は薬品がこぼれても良いようにお風呂場を使い、シルクスクリーンの作品はベッドの上に並べて乾かした。

 銅版画の印刷のためには、プレス機を備えた工房を探さなければならかった。私の通った工房は、マンハッタンの下町二十三丁目の今にも崩れそうな古いビルの六階にあった。ビルの周りには安物のウイッグ屋などの店が並び、黒人やプエルトリコ人が独特の乾いた喧騒をまき散らしていた。地下鉄に乗ってそこにたどり着き、酔いつぶれて街路に寝ている酔っ払いをまたいでビルの中に入り、今にも止まりそうなエレベーターに乗って工房へ通ったものであった。

 工房にはズラリと八台のプレス機が並び、人種も年齢もさまざまだが、体の大きな版画家たちが黙々と自分の作品を刷っている。彼らは決して周囲に影響されず、頑固に自分のペースを守っていく。初めは大したものには見えなかった作品でも同じテーマを二年も三年も倦まずに繰り返されると強い説得力が生まれてくる。

 お昼休みには、それぞれ持参のランチを食べながら、話を交わした。彼らは自分の画歴と作品のスライドを用意して、暇を見ては自分の目指す画廊や美術館に売り込みに回っているのだそうだ。

 私はこの工房で多くの版画家に出会い、アーティストとしての強い生き方を教えられた。
〈『窓辺』静岡新聞(夕刊)1987年8月18日〉

《4》ニューヨークの日本人アーティスト

 ニューヨークに移り住んで間もないころ、あの地に在住している日本人アーティストが集まって私の歓迎パーティーを開いてくれた。

 場所はニューヨーク市当局がマンハッタンの南西にある古い大きな電話局だったビルを改造し、芸術家たちに安く貸している住居兼アトリエの一室。約束の時間に着くと、六十畳くらいの大きな部屋に、日本にいた時から名前も作品も知っていた画家、彫刻家、音楽家、ダンサーたちが三十人以上も集まって、既に相当酔っ払って大声で話したり笑ったりしている。中には椅子にうなだれて眠っている人もいる。不思議に思って「飲み過ぎたの?」と隣の人に聞くと、「マリファナでトリップ(夢を見ている)みたいだね」とごくあっさりと説明された。

 その時お会いした前衛画家、篠原有司男さんをしばらくして訪ねた。彼はひどく荒廃した倉庫街の一角に住みエネルギッシュに活動していた。何も改造など施されていない古いビルで、工場の機械を持ち去った直後のようながらんどうの三階が彼のアトリエであった。街からダンボールをしこたま拾い集め、鼻を突くようなプラスティックの接着剤と蛍光色の絵具で、デフォルメされた女性の乗ったオートバイや、自由の女神像などの立体を制作していた。その作品群はいずれもニューヨークの喧騒と猥雑とエネルギーと狂気とを不思議にピタリと表現していた。「ニューヨークにはいっぱいバイ菌がいるのよ。おれはこのバイ菌の中に頭まで浸かっていないと仕事ができないのよ」と言って、貧しさの中でも意気軒昂であった。

 ニューヨークには悪がいっぱいだ。麻薬、売春、強盗、殺人…。しかしそれなるが故に紛れもない現代の人間社会である。そこに身を置くことによって獲得される現代に生きているという感覚とそこから感じとられる強い問題意識。これが芸術家を惹きつけてやまないのだが、考えてみれば因果な話というほかない。私自身、今なおニューヨークに限りない執着を感じている。
〈『窓辺』静岡新聞(夕刊)1987年8月25日〉

《5》ニューヨークの落書き

 ニューヨークは落書きの酷さで有名である。ある黒人の少年が自分の降りた地下鉄の駅の壁に自分のニックネームと番号をマジックマーカーで書き記したのをキッカケとして落書きは伝染病のようにアッという間に街中に流行してしまった。特に酷かったのが地下鉄の車体。内部も、外部も、どの車両もことごとく透き間もないほど色とりどりのスプレー塗料による独特の文字で埋め尽くされてしまった。もちろん公共物じぇの落書きは困りものだし、市当局も最初は落書きの現場を取り押さえるなどして、その防止に躍起となったようだった。しかし、追っても追っても隙をみて落書きをしてしまう少年たちのエネルギーに根負けして、華々しい落書きの地下鉄はついにニューヨークの名物になってしまった。

Descent

Descent

 ニューヨークに住んでからも、私の作品のテーマは、 版画を初めて以来一貫して描いてきた、人間の営みのすがたであった。ただ、この街に着いてからというもの、例えばエロチシズムについても、抑揚の気持ちが薄らぎ、むき出しを少しも厭わなくなっていた。その上、私は黒の濃淡だけの銅版画にシルクスクリーンで色版を加える事に熱中するようになった。しかもその色はブルーやピンクやイエローの蛍光色といった、どぎつい明るい色でなければ気が済まないようになってしまった。

 今、振り返ってみると、あの街は人間の官能や衝動を開放せずにはおかない何かを持っているように思えてならない。マスコミはよく落書き少年に向かって、「君たちはなぜ落書きをするのか」とその動機を尋ねていたが、筋の通った答えを得ることはなかったようだ。あの街の持っている何かが突然彼らの衝動に出口を与えてしまったとしか言えないのではないか。

 今の私は、ニューヨーク時代の作品そのものについては、その生々しさに違和感すら持っているが、それは明らかに私の美の幅をぐっと大きく広げてくれたことだけは確かである。
〈『窓辺』静岡新聞(夕刊)1987年9月1日〉

《6》マンダラの旅

 昭和五十五年(1980年)の夏、マンダラ画家の前田常作先生のお供をして、西チベットのラダックを訪ねた。ラダックは標高四千メートルの秘境にあり、このため、古く十一世紀の昔に描かれたマンダラですらほとんど当時のままに残されているということで、最近にわかに世界の注目を浴び始めたところである。

 インドのデリーからスリナガールまで飛行機で北上し、そこから三日三晩、スーパーデラックスと呼ばれるおんぼろバスに揺られながら、不毛の黄土の高地をラダックに向けてひたすら走った。はるか前方に望まれるカラコルムやヒマラヤの山々、断崖のはるか下を流れるインダス川と時折この川にかかる大きな虹、夜ともなると荒涼とした岩山を慈しむように照らす優しい月の光。途中のこのような自然の景観がいやがうえでも私たちにマンダラの世界に赴く心の準備をさせた。

 そして突然、今まで隠しに隠してきた宝物でも見せるように、緑の麦畑が眼前に現れた。着いたのだ!希薄な空気の中荒れた土地に生きて、人々も草木も痩せているが、その健気さに心を打たれる。

 村から小高い丘へ小道を登ると、堂々たる石造りの寺院がある。周囲には長い風雪に耐えてきた大小のたくさんの仏舎利塔があり、中には朽ち果てて地に還る寸前のものも見える。重い扉を開けて、本堂に入る。目が少しずつ内部の暗がりに慣れてきて、周りの壁面に描かれたマンダラの細部が見えてくる。赤を貴重色とした強烈な色彩の洪水の中で壁中を埋め尽くす千体仏とその中央に描かれたエロチシズムあふれる合体仏。そして天井を突き抜けて立つ立体の阿弥陀如来像が一挙に躍りかかって来るようで、私は思わずめまいを覚えた。

 人々はこれらのマンダラに祈りを捧げることによって、この酷薄な自然を生きる静かな勇気を与えられてきたのだろう。原色のエロスと不毛の自然というおよそ対照的なものが不思議と宗教的に合一しているのだ。

 ラダックへの旅以後、私の作品にはこれまでの都市的な人工が消え、自然の中のギリギリの生命の姿が繰り返し現れることになった。
〈『窓辺』静岡新聞(夕刊)1987年9月8日〉

《7》ソウルの個展

 二年前の昭和六十年(1985年)の秋、韓国のソウルで個展を開いた。

 友人の彫刻家、新妻実さんがソウルの空間美術館(スペース・ギャラリー)の主宰者であり、韓国の代表的な建築家である金寿根さんと親しく、 私を金さんに紹介してくれたのである。二人は、金さんの東京藝術大学留学中にラグビー仲間だったそうだ。

 その年の二月に作品を携えて初めてソウルを訪ね、金さんにお目にかかった。ご自身が設計したオリンピックのメーンスタジアムの建設のために大きな体軀にあふれんばかりのエネルギーをぶつけて、多忙を極めている様子であった。個展の企画は、金さんが私の作品を気に入ってくれて、すぐに話しがまとまった。

 それから半年余りがたった九月二十一日二戸店が開かれる。私は、作品の陳列具合などをチェックするため、二日前にソウルに向かった。空間美術館は鉄筋コンクリートとレンガ造りの組み合わせで、材料が持つ独自の色彩と肌合いを大切にした重厚な建物である。それはまた、現代建築に韓国様式を微妙に活かした建物であり、建築家・金寿根の創作活動の本拠でもあった。  室内に入ると、既に私の作品が飾り付けられていた。地下一階と地上の二階にある三室が階段をめぐって螺旋状に並んでいて、階段を歩きながらでも作品を眺められるようになっている。一巡してみて、これは大変だと思った。レンガの壁面の色といい、ラフな凸凹といい展示作品にはかなり厳しい環境であり、また会場を巡回することによる空間の変化も作品に強い力を求めずにはおかない。これは、金寿根の挑戦だと思った。

 オープニング・パーティーで金さんに会った。彼は前回私と会って間もなく悪い病気で入院したと聞いてたので、元気な姿をみて本当に嬉しかった。「退院後初めての外出ですよ。個展おめでとう」と握手を求められた。

 個展が終わって半年後、金さんの訃報を聞いた。私は機会を得て再び空間美術館で個展をしたいと思っている。そして、 彼の挑戦に一歩も退かぬ作品を並べることこそ、私なりの彼への鎮魂だと考えている。
〈『窓辺』静岡新聞(夕刊)1987年9月15日〉

《8》最高でねが?

 雪の弘前公園を歩いていた。ところどころの道のわきに小鳥の巣箱のようなものが立てられている。高さは大体大人の目の線だ。小鳥の巣箱にしては少しおかしいので、案内役の友人・村上善男さん(画家・弘前大学教授)に聞いてみた。「あれね。市民が自分で作った歌や句を投げ入れるところです。市役所の人が集めて、入選作で半年に一度文集を作っているのです。」

 弘前にたつ前日、浜松の自宅に詩人の吉増剛造さんがわざわざ電話を下さった。「弘前にはちょっとした外国旅行と同じくらいの新しい発見がありますよ。」弘前が好きでしょっちゅう出かけている吉増さんが、いつもの細い声だが、もう一度言わずにはいられないといった調子で弘前推奨の気持ちを伝えてきた。

 そもそも今年の二月のこのときの個展は、吉増さんと村上さんのお骨折りで実現した。

 場所は「スペース・デネガ」 〈『窓辺』静岡新聞(夕刊)1987年9月22日〉四年前に地元の医師・故鳴海裕行先生が弘前にどうしても文化の発信地を作りたいと、情熱を傾けて建てられたところだ。「デネガ」とは何と津軽弁のネスパ(仏語で「ではないですか?」の意)なのだそうだ。

 個展のオープニングの日は朝から雪が降った。村上さんが私に雪の津軽を満喫できるようにと、わざとこの時期を選んでくださったのだが、狙いどおりの日になった。夕方頃合いをみて、自称「美丈夫」の画廊主任、佐藤さんが中庭に積もった雪の中へ数本のワインを差し込んだ。雪はますます激しくなり、雪片が夕空に吹き上がって美しい。夜七時きっかり、聖隷病院の藤沢弘芳先生(弘前出身)以下の浜松からの一行が到着。ぼつぼつ集まってきた津軽の人たちが浜松組を暖かく迎えてくれる。長い歴史に裏打ちされた文化への志向の強さがこんな雰囲気をつくるのだろう。一同今夜の出会いを祝って乾杯!お酒は吉増さんが二日前北海道に出掛ける途中届けてくださった金粉入りのものであった。

 個展は、いつだれに見られて厳しい評価を浴びるか分からぬ勝負の場であるが、同時に精神が交流する祝祭の場でもある。弘前の個展は、後者の意味で私にとって忘れ得ぬものとなった。
〈『窓辺』静岡新聞(夕刊)1987年9月22日〉

《9》ポルトガルの画学生たち

 今年の六月、ポルトガルのリスボンで個展を開いた。芸術家養成学校のアルコーで是非実技の指導をしてほしいと言われ、その約束も果たしてきた。アルコーの生徒数は全体で五百人位だそうだが、私が教えたのは上級クラスで、生徒数は五十人足らずであった。

 一日目は日本の伝統的な木版画について、摺りを中心にして実技を教えた。竹の皮で作ったバレンを見るのも初めてという人ばかりで、大変興味を呼んだようであった。

 二日目は何とデッサンの指導を行った。 元来西洋の技法であるデッサンを私のような日本人になぜ指導させるのか、不思議といえば不思議である。最近、これまで油絵の下絵としてだけ考えられてきたデッサンを独立した作品として考える人が多くなってきた。私自身もデッサンが好きで、版画を作る合間に沢山作品を作っている。そんな私の活動を見ていて、校長のカブラルさんが日本人のデッサンで生徒を刺激しようと考えたのかなと思って、ともかく授業に向かった。

 教室に案内されると、既にモデルも到着し、生徒たちも脚立を立てて待っていた。モデルは肌の浅黒い、均整のとれた身体つきの若い女性であった。私の意見で立ちポーズをとってもらい、生徒にデッサンを始めさせた。暫くは鉛筆とコンテが画面を擦る音だけが続いた。

 モデルの休憩時間になって一人一人の作品を見て廻った。概して技法的に未熟である。私は、拙い英語と身振り手振りで彼らが描こうとしているものを聞き出し、作品をよりそれに近づけるよう助言をし、画面に手を入れた。

 こんな形で指導をし終えたのであるが、私は自分自身が逆に彼らの作品によって心打たれていることに気付いた。彼らは決してうまくはない。否、そもそも彼らはうまく見せようなどと思ってないないのだ。自分が本当に描きたいものをぬけぬけと描いている。ちょうどプリミティブ・アートに感じるものと同じものだ。考えてみれば、 これこそが芸術の最も大事なところであり、忘れてならない心ではないか。 私は西の最果ての国まで来て、こんな芸術の原点を思い出させられたのであった。
〈『窓辺』静岡新聞(夕刊)1987年9月29日〉

《10》ポルトガルの海

 個展のためにリスボンに滞在していたある日、海辺の町ナザレへ出掛けた。

 ナザレはリスボンから北に車で二時間ばかりのところにある古くから伝統と風俗を今に色濃く残している漁師町である。街を行く男の人は毛糸の三角帽子にウールのチェックのシャツを着て、女性は黒尽くめの服にスカートを何枚も重ねて履いているようだ。初夏といえ、海辺で風が強く、一日のうちでも寒暖の差が激しいのでこんな厚着をしているのであるが、いかにも質素である。

 町に着いたのがちょうどお昼時だったので、そのまま海岸沿いのレストランへ入った。ためらわず名物の鰯の塩焼きを注文し、目の前で炭火で焼いたアツアツを煙の中でいただいた。店のお客が少なくなると、それを見計らっていたように近所の女性たちが手に手に自分たちのお昼の鰯を持って炭火の周りにやってきた。将に「もらい火」である。

 食事が終わり、強い日差しの道を歩いて海岸へ出た。紺碧の海から運ばれてくる潮風の中で、人々は、魚を乾かし、あるいは編みを繕い、それぞれかいがいしく働いている。何か自分が突然日本の昔の漁村に連れて来られたような懐かしさを覚える。その光景はあくまでも静かで、美しく、質実であった。

 考えてみると私は、ポルトガルのあちこちに足を運び、たくさんのポルトガル人にあったが、その間ずっと、このナザレの町と人々に感じた思いを持ち続けていたように思う。

 ポルトガルの町には威圧的なもの、けばけばしいもの、見せびらかしているようなものがない。みな等身大なのだ。ナザレに来る途中にも十七世紀のお城の廃墟があった。しかし、これとても偉容を誇っていたという感じはなく、また、今人々はただ朽ちるにまかせているだけだ。

 ポルトガル人は身体つきが概して小柄だ。そして心根はいつも海の彼方を見ているような彼らの眼差しが示すように、実に素朴で優しい。

 わずか二十日足らずの旅であったが、私がポルトガルの地と人に触発され、 何か言いようのない、制作に向かう前段階の興奮のようなものを覚えているのは確かである。
〈『窓辺』静岡新聞(夕刊)1987年10月6日〉

《11》古いブラッシ

 私の作業机の前の壁に、ブルーの絵具がこびり付き、毛が擦り切れてしまった一本の古いブラッシが下げられている。これは、画家の猪熊弦一郎先生がニューヨークのアトリエを引き払われるとき、先生固有の色のついたものを特にねだっていただいた思い出の品である。

 猪熊先生は五十歳になられた時、自分の仕事に新境地を開きたいと考えられ、思い切って日本を捨てパリに移り住もうと決心された。ところが旅の途中に数週間だけの予定で立ち寄られたニューヨークがすっかり気に入られて、そのまま二十年も居付いてしまわれたのであった。そして、最後の三年間に、私共は先生のごく近くで生活をし、大変沢山のことを教えていただいたのである。

 先生はニューヨークで同じ世代の一流の芸術形と親しく行き来されていた。舞踏のマース・カニングハム、漫画のハーシュフェルド、建築評論のルドフスキー、彫刻のイサム・ノグチなどであり、彼らの家を訪ねたり、作品展を見に行く時は必ず私を連れて行って勉強させてくださった。先生は又、ご自分よりはるか年の若い最前線のアーティストとも対等にお付き合いをし、よいものには心から感動された。J・ジョーンズ、R・ラウシェンバーグ、A・ウォーホールらであり、先生の精神のしなやかさには本当に感心させられた。

 ニューヨークの芸術活動は、しかる場所でしかるべく行われるだけでなく、とんでもないところでとんでもない形で起こる。先生は廃墟同然のビルの危ない階段も厭わず、見るべきものはしっかり見ておこうとされた。

 そして街を歩きながら、トラックが踏みつぶしたコカコーラの缶や車のプレートの形や色が面白いと言って拾われ、アトリエに飾られた。また街の中で、ふと「あの古いビルの柱とあの黒人のファッションの取り合わせは本当に美しいね。ニューヨークでなきゃ絶対に見られないね。」とむくむく笑いながらおっしゃるのだった。

 猪熊弦一郎先生、今年八十四歳。まだ現役で制作に励んでおられる。私にとって芸術家の生活とはどういうものかを教えてくださった人生の大きな師である。
〈『窓辺』静岡新聞(夕刊)1987年10月13日〉

《12》「恋の浮島」

 浜松に帰ってから八年たった。帰ってきたばかりの頃は、東京からこんなに離れた場所で仕事の方はどうなるのかなと心細かった。しかし、ありがたいことに心配とは逆のことになった。

 きっかけは静岡のある会で池田二十世紀美術館の牧田喜義館長にお目にかかったことだ。牧田さんは早速私のアトリエを訪ねて作品を見てくださった。そして一年後、伊東の美術館で木版画の伊藤勉黄さんとの二人展を催してくださった。これまで二十年間に作った作品の中から五十点余りを初めて一度に並べさせていただいたが、この展覧会は私が郷里で制作活動を続けていく土台を与えてくれたのであった。

 東京の友人も一人、二人と旅の途中などによってくれるようになり、会えるとなると東京でよりもはるかにゆっくりと話ができ、友情も深められた。浜松住いの特権である。

 吉増剛造さんは細い身体で、いつも旅から旅へと疾走しながら詩作をしている詩人であるが、一年に数回浜松にもフラッと立ち寄られる。私どもは、杉本道夫さん(浜松スバル座支配人)の発案で二年前から、吉増さんが来られたとき彼を囲んで詩を聞く会を作った。そこで吉増さんは静かな通る声で言葉を選びながら、旅の中で触発された風景や音について語り、また、自作の詩の朗読をされる。まさに現代の吟遊詩人のパフォーマンスをこの浜松で身近に見ることができるのだ。

 七月の末に行われたこの会では、吉増さんの詩を聞いたあと、話が自然に私がつい最近訪ねたポルトガルのことになった。私はポルトガルで映画「恋の浮島」を見ていなかったために随分恥ずかしい思いをしたことを話した。「恋の浮島」は、日本女性を愛し、遂に徳島で生涯を終えたポルトガルの外交官モラエスを描いた作品である。吉増さんは暫くして突然言われた。「岩波ホールで『恋の浮島』を見る会をやりましょう」。

 九月十五日神田の岩波ホールに東京、静岡、浜松の仲間が集まって『恋の浮島』を鑑賞した。映画のあと楽しいパーティーをしたが、そこへポルトガル大使館からワインの差し入れがあった。小さな浜松の絵画ポルトガルまでつながったのだった。
〈『窓辺』静岡新聞(夕刊)1987年10月20日〉

《13》詩画集「海へ」のこと

 昭和五十年(1975年)、ニューヨーク滞在から帰国して最初の個展を東京の養清堂画廊で催すことになったとき、画廊の阿部社長から詩人で美術評論もする岡田隆彦さんを紹介された。個展のカタログに岡田さんの文章をいただくためであった。

 岡田さんは引き受けてくださった。しかしその文章は歯に衣を着せぬ厳しいものであった。「…作品によっては散漫な印象を拭えない。達者な技法と感覚に恵まれながら、それらを十分にいかしていないツメの甘さが気になる。」私が意気消沈していたら阿部さんから「あなたはおだてられていたいのですか。岡田さんのように本当のことを書く評論家はすくないですよ。」ともう一度叱られてしまった。

 ともあれ、これがご縁で交友が始まり、それ以後、作品への助言をいただいたり、未知の詩の世界を教えていただいたりするようになった。

 八年前浜松に帰ってから、私は時々天竜川河口の海を訪ねる。特に台風のあとの海辺には面白い形の流木などが転がっていて興味が尽きない。四年ほど前、 海をテーマに小品を三点作って岡田さんに見せたところ「詩を付けてみましょうか」という思いもかけない言葉が返ってきた。

 その後数日して五篇の詩が送られてきた。詩は「また海にでるのだ、荒れ狂う心をしずめるために、」の句から始まって、当時の私の心情を謳い当てたものであった。今度は私が余分にいただいた詩に画を付ける番になった。そんな具合に、詩が先だったり、画が先だったり、両方同時だったりして東京と浜松で詩と画の制作が進んでいった。この間岡田さんは終始「詩と画が組み合うには魂の交流がなければならない。なぜならお互いにお互いの隠喩をどれだけ理解するかに関わっているのだから」と厳しく言い続けられた。

 浜松の四ツ池ギャラリーでの個展の初日、岡田さんはどりゃぶりの雨の音とエリック・サティのピアノ曲をバックに「海へ」の詩八篇を少年のように張りのある声で朗読された。

 私の版画「海へ」は、岡田さんの詩が共鳴して、その後の私の作品が自然へ接近していく出発点になった。
〈『窓辺』静岡新聞(夕刊)1987年10月27日〉