河内成幸

河内成幸/Seiko Kawachi

1948年、山梨県上野原町生まれ。「木版凸凹摺り」と言う独自の手法により伝統的木版画にシャープな凹版の線を組み合わせ独創的な版画世界を展開。
具象から心象、抽象と広いフィールドをもつ。桂、亀裂、鶏、北斎の波に加え近年は富士山をモチーフとして制作している。

1973年 多摩美術大学油画科卒業

1979年 第10回日本版グランプリ展(グランプリ)受賞、第8回スイス・グレンヘレン国際色彩版画トリエンナーレ展(最高賞)受賞

1982年 第6回ノルウェー国際版画ビエンナーレ展(最高賞)受賞

1983年 第4回カリフォルニア国際版画展(最高賞)受賞

1988年 ノーベル財団より版画7点依頼される。金メダル授与(貢献賞)

1989年 第18回リュブリアナ国際版画ビエンナーレ展(クラーゲンフルト賞)受賞

2001年 台湾芸術大学特別講師

2003年 台北芸術大学客員教授

2004年 中国美術学院特別講師

2007年 名古屋造形大学客員教授

版画作品

  • 自然の枠組(向日葵)

    自然の枠組(向日葵)
    2012年

  • 13-(X)

    13-(X)
    2013年

  • 支え(Ⅳ)

    支え(Ⅳ)
    2012年

  • 黄金空間(Ⅲ)

    黄金空間(Ⅲ)
    2011年

  • 林の中で(不二)

    林の中で(不二)
    2008年

  • 思


    2012年

  • Riu(黄金伝説)

    Riu(黄金伝説)
    2009年

私の作品のコンセプトは、版画の世界の中にある不思議な鏡の世界です。
それを捜していると、アジア人の持っている宇宙観に突き当ります。
私は感じるがままに宇宙を創造しております。
河内成幸

インタビュー(2014年5月20日)

インタビュー
アトリエにて

−「河内先生、今日はどうぞ宜しくお願い致します。」

河内「はい、宜しく。」

−今、若手作家がなかなか版画で食べていけなくてやめていってしまいます。先生は学生結婚して、現在まで40年以上作家として活躍されてますが学生時代から『これでいける!』みたいな自信があったのでしょうか?」

河内「あはは、そんなのはなかったねぇ。浪人してタマビ(*多摩美術大学)に入って22歳で学生結婚したんだけど、将来の確たる自信なんていうのはなかったな。」

−「卒業してからの進路など決まってはいなかったのですか?」

「藝大の大学院に進学したかった。大学も藝大に進学したかったから藝大一本で浪人した。最初の浪人当時は、タマビという学校を知らなかった。でも受験したら落とされた。中林さんと野田さんに落とされたのかもなあ(笑)。大学卒業後はヨーロッパに行って、絵描きでやってみたかったなあ。」

作品

−「凄い、ヨーロッパに行く資金はどこから捻出を?」

河内「親の脛をかじるしかなかっただろうな。今はどうだか知らないけど、当時の美大卒業生なんてそんなもんだったよ。結局それは実現せず、丁度進路に迷っている時に「タマビの助手」にならないかと声掛けてもらった。」

−「それで、助手になることに。」

河内「そうだね、助手といっても当時のタマビの油絵学科は、上野毛校舎から八王子への移転期間で助手の仕事というのは上野毛校舎と八王子鑓水校の往復で荷物運びの手伝いが多かったなあ。もちろんそれなりに仕事はあったんだけど。」

−「助手で家族を養っていけた?」

河内「無理だね、当時世田谷の成城に住んでいて家賃で35000円、助手の給料は18000円くらいだった。」

−「家賃だけで大赤字ですね、他にも生活費や画材もあるわけで…どうやって生活していたんでしょうか?まさか、そこも脛…?」

河内「ホント、当時の助手はきつかった。だから近所の幼稚園に休日に絵を教える教室をやらせてもらえないかと交渉して3つ掛け持ちでやった。それで家賃とか生活費まかなってた。60000円位それで収入があったから。」

−「そんな中で制作の時間をやりくりして開催した初個展はどうだったのですか?」

色つけ

河内「助手時代だったんだけど、初めての個展は当時有楽町のガード下にあったガレリア・グラフィカでやった。作品はほとんど売れなかったねえ(苦笑)。親戚が沢山買ってくれて助かった。申し訳ないと思ったけど、それで止めようとは思わなかったけどね。」

−「私が初めて先生にお会いした時、先生ベンツで駅に迎えに来てくれましたよね。(2000年頃)」

河内「おお、よく覚えてるね。ディーゼル車のやつだ。」

−「私はあの時まだ学生で、版画家の先生というのは儲かるのだと思いました。」

「あはは、浮世絵師だってそうだけど、版画は昔から庶民の芸術だから値段も高くないし、みんなが手に取りやすくなくちゃいけないと思ってる。」

−「なるほど、それでベンツは?」

河内「ベンツにこだわるねえ。あれはノーベル財団のオファーの報酬で買ったんだ。7点制作を依頼されてエディションも全て買い上げという破格の条件だった。作品は今もノーベル財団に保管されている。その仕事を一緒にした作家としては、萩原英雄先生や加山又造先生、小林ドンゲさんなどがいた。ノーベル財団は何十年後かに貴重な作品としてそれらをオークションなどに出してノーベル賞の財源に充てるのかもしれないね。」

−「すごい、ノーベル財団!日本でももっとこういうスケールの動きがあるといいですね。河内先生は版画を基軸に本当に様々な仕事で活躍されているんですね。」

河内「そうだね、活躍した!と自分では言えないけど、一生懸命やってるよ。制作して、名古屋や福岡の大学やカルチャースクールで教えてさ。それもそろそろ終わりで、制作に打ち込もうと思ってる。あんまり大きいのは腰痛でだめだけど」

−「…はい。」

馬簾

−「話が戻るんですが、大学時代から版画協会にはずっと出展されていますが、油絵学科だけど版画をやっていくと決めていたからでしょうか?」

河内「大学入る前から、家内が通っていた創形美術学校の地下室のアトリエで版画を作っていた。2度目に出した「もし何かが起こったら」で新人賞を貰った。今度は学園紛争がおきて、1年半くらいかなあ授業が何もなかった。だから、創形美術学校でやっぱり版画を作っていた。油絵より版画を沢山作っていたから自然な流れだったと思う。」

−「その時の先生というのは?」

河内「創形美術学校のスタッフでは、吉田穂高さんや松本晃さんがいらしたね。でも木版画を一番ならったというのは家内かなあ(笑)」

−「油絵の方も平行して制作していた?」

河内「そうだね、裸婦はずいぶん沢山描いたよ。でも油絵の方が段々減っていった。僕はシルクも銅版も木版もやっていたからね。そんなに色々はできないよ、ピカソじゃないんだから(笑)」

−「先生の恩師というのは?」

河内「版画という意味では駒井哲郎先生で、美術概論というのであれば東野芳名先生だね。」

−「駒井先生に習っていたのに木版画?」

河内「いや、もちろん駒井先生に習っていた頃は銅版画を中心に制作していた。その銅版画で得た線を木版画でも表現したくてやり始めたのが木版凹版だよ。」

−「おお、なるほど。河内先生の代名詞的な木版凹版はそういう誕生の流れがあるのですね。」

河内「73年ごろから木版をちゃんと始めて、卒業制作の時には未だ迷っていたのを覚えているね。銅版でいくのか、木版でいくのかって。卒業後の74年に木版凹版の技法の基礎が完成した。」

−「凹版の技法研究の時の失敗は?」

制作過程

河内「失敗だらけだったよ、油性凹版は汚れるんだ。やわらかすぎると凹版が流れちゃったりしてさ、紙が汚れちゃ版画としてみっともないからね。道具も今とは全く違う。インクを版面から拭き取るスキージーも昔は硬いものしかなかったから。今は柔らかいものを使用してる。」

−「逆に木版の味を銅版画でとか、混合技法とかは考えなかったのでしょうか?」

河内「あまり考えなかったね。線も欲しかったけど面も欲しかったからね。もしかしたらその頃から「木版画」という日本的なものに惹かれていたのかもしれないね。」

−「版画家の人は版画の技法をあまり公開したがらないところがありますが、河内先生は昔から全部公開していますよね。版画芸術に先生の技法が紹介されていたのをきっかけに習得したと同じく木版凹版の作家の木下泰嘉さんが書いていますし、牧野浩紀さんをはじめとした多くのタマビ出身の作家が木版凹版を使った作品を発表しています。」

河内「他の作家はどう考えているのか、わからないけど僕は、技術は真似て、改良してどんどん良くなって文化として定着すればいいと思っている。自分も萩原英雄先生など様々な人から学び、ヒントを得て今の技法に行き着いたわけだから、昔なら兎も角、絵画制作の技術なんていうのは隠さないでいいんじゃないかと思うね。」

馬簾

−「先生はころころ馬連を発明して特許を持っていますよね。」

河内「ああ、そうだね。ベアリングで馬連を作って新日本造形社に制造してもらった。今でも市販されているベアリング馬連で一番細かいし、動きも軽いよ。でも、特許を維持するのは費用が高くて何年か前に止めちゃった。」

−「これもまた版画の道具の普及のためと解釈できますね、素晴らしいじゃないですか!」

河内「まあ、これも一つの日本の版画用具としてみんなが使えるというのが一番いいんじゃないかな。」

−「今若い版画を勉強している人は将来、版画家を目指しているのですか?」

河内「非常勤(講師)でアチコチの大学いった時に学生に聞くけど、若い人は版画作家になろうという意識はないね。新入生に聞いたら絵を描くのが好きだから、それで大学を卒業できたらいいですと言われてしまった。それから先は絵描きになったりアーティストになろうとかは思わないの?と聞くと、「自分はそこまで出来ないですから・・・」と最初から諦めてる人が多いね。」

−「それはどうしてだと思いますか?」

河内「なんでだろうなぁ、技術の細分化というのはあるよね。今は、版画以外にも沢山の藝術ジャンル、新しいモノでは、コンピューターグラフィックとか映画とか色んなモノが増えたというのはあるよね。俺たちの時は、版画は新しいということはなかったけど、今のように古いもの(古典的)、という印象もなかったしね。当時はアルバイトで映画の看板描きや新聞の挿絵なんかもあったけど、今そういうのも専門家がやるんだろう?映画の看板描きなんていう仕事自体がもうないか。大学の専門も、もちろん将来の仕事としても、狭く、深くという方向だから、それを版画にしたい!と思うのは若い人にとっても、なかなか難しい決断だと思うよ。」

−「今、先生の同期で版画家で活躍されている人は他にいますか?」

河内「うーん、前後何年かだったら(渡辺)達正さんとかいるけど、ほとんどいないね。」

美栄子夫人

−「最後に、版画家になる秘訣というのは?」

河内「やっぱり作り続けることじゃないか?これがいつの時代も、一番むずかしいと思うね。アルバイトでも何でもいいから、兎に角なんとか食べていく分を自分で稼いで、版画協会でもいいし他のビエンナーレ、トリエンナーレとか定期的に自分の作品を発表できる場所で続けることが大事だと思う。プロになるにも何をするにしても続けないと難しいからね。結果を焦らないで頑張ることだ。」

−「えっ…頑張る!つまり根性ですか?」

河内「根性がなかったら何も出来ねえだろう。発表を続けていくから発見や進歩、人と人との縁があるわけだろう?」

−「押忍、根性でインタビューの方も続けます。本日はありがとうございました。」

アトリエ風景

アトリエ
道具

アトリエ訪問後記

学生の頃からお世話になっている河内先生のアトリエ(兼自宅)を訪ねた。このアトリエの棟上げ式の時に見に来なよ、といってもらっておじゃましたことがある。

その時から先生はあれこれどこに置くのかしっかり計画されていたのだろう。採光や水場の位置は勿論プレス機、作品の保管のラック、作業台、プレス機、これから摺る予定の紙たち、ここ以外に置くところはない!というくらいキチンと収まっている。

先生は汗をかきながらも軽快な身のこなしで次々と摺りつつ「俺も歳だから、これよりデカイのはもうシンドイな」と仰りながら、みるみるうちに作品・「自然の枠組(向日葵)」を摺り上げていった。「ゴッホのひまわり」+「北斎の波」というまるで、ビーフステーキとうな重のような取り合わせに先生のユーモアと明るいパワーが伝わって来るようだった。