中林忠良

中林忠良/Tadayoshi Nakabayashi

日本版画界を代表する銅版画の第一人者。東京生まれ。東京芸術大学の版画教育を野田哲也とともに担ってきた。現在同大名誉教授。芸大で駒井哲郎師事。75年パリ国立美術大学、ハンブルグ造形芸術大学で研究。「現代日本の銅版画に新たな一面を開いた」といわれる。

「大腐爛頌」(1975年)の金子光晴の詩の一節「すべて腐らないものはない!」という一節にうたれ、その思想のもとに、白と黒を基調とする腐蝕銅版画による製作を続けている。6歳から10歳までの4年間、疎開先だった雪国での白と黒の世界での体験が作品群の原風景だという。

1937年 東京・品川区大井山中町に産まれる

1941年 江東区に転居

1943年 品川区に転居

1944年 目黒区に転居目黒区立中目黒小学校入学直後に、新潟県蒲原郡加茂町(現加茂市に戦時児童疎開 4年間を過ごす

1956年 株式会社ベースボールマガジン社に勤務 (〜57年) 1959年 : 東京芸術大学 美術学部絵画科油絵専攻に入学

1961年 3年次の版画集中講義で、駒井哲郎から初めて銅版画を学ぶ

1963年 東京芸術大学卒業(学部同級生 -版画開孫- に青出光佑、秋元幸茂、斎藤智、野田哲也、星野美智子、本山敬子、柳澤紀子)
     東京芸術大学大学院 美術研究科 版画専攻に入学、駒井哲郎に師事

1965年 東京芸術大学 大学院卒業 同大副手に採用される 66年非常勤講師
    「アトリエC-126」を結成 今井 治男、小作 青史、野田哲也、吉田東、清塚紀子、のちに田村文雄、原健らが参加

1969年 東京芸術大学助手 74年講師、78年助教授、89年教授
     この間、73年 : 第四回版画グランプリ展でグランプリ受賞、ソウル国際版画ビエンナーレ国際大賞など内外で多数受賞

1975年 文部省派遣在外研究員としてパリ国立美術学校、ハンブルグ造形芸術大学で研修(〜76年)

2003年 紫綬褒章受賞.

2005年 東京芸術大学教授を退任 武蔵野美術大学客員教授(〜2009)、大阪芸術大学教授に招聘される

現在  東京芸術大学名誉教授、大阪芸術大学客員教授、京都造形芸術大学客員教授

版画作品

  • 転位'07-地-Ⅰ
  • 転位'07-地-Ⅱ
  • 転位'06-地-Ⅰ

エッチングを基本としているが、アクアチントやリトグラフ、ドライポイントなども併用した、多彩で精緻なニュアンスを実現している。 社会福祉法人済生会の機関誌「済生」の表紙絵を、1964年からら50年描き続けており、それらは「もう一つの彩月ー絵とことばー」として2012年に出版されているが、近年の多くはモノタイプ(単刷版画)での制作となっている。

作品と思想の軌跡

「現代日本の銅版画に新たな一面を開いた」といわれる中林忠良は白と黒の世界を「すべて腐らないものはない」というテーマの元に、主としてエッチングによる作品群を作り続ける日本版画界のリーダーの1人である。

 東京の大井にうまれた中林は、幼少時、深川、五反田と転居をくりかえし、中目黒で小学校にあがったが、太平洋戦争の末期でもあり、まもなく新潟県南蒲原郡加茂町(現加茂市)に疎開する。小学1年から最初の半年は半分が雪で埋もれる生活を兄とふたりで体験した。丁度、藤子不二雄Aの名作「少年時代」そっくりの疎開生活を送ったわけだ。感受性に富んだ少年期の4年間は中林に大きな影響を与えた。

制作風景

 「吹雪に煙る白銀世界。暮れなずむ野畑の闇と薄明かり。雪を背負った黒い幹。やがて雪解けがくれば其処此処にのぞく黒い大地。痛みにじんだ雪。白と黒のネガティブな視覚。おそらくはそれらの記憶の澱りが、腐蝕銅版画の透徹した冷ややかな黒白世界と呼応するのだろう」と後に書いている。

 銅版画との出会いは、芸大3年の1961年秋。駒井哲郎の集中講義に出席し、駒井の作品、実際に刷る姿に感動。版画を作る。また特異な画家ヴォルスの作品にであったこともきっかけとなり、「油絵の絵の具のヌルヌルした感じが身にそわなくて、描けば描くほど作品が自分から遠ざかるようで、そんなときに銅版と出合った、もうコレだ!と」叫んだと駒井の授業との出会いの衝撃を語っている。

 以来、卒業後も大学院に版画専攻として進み、1965年研究科修了後も駒井の助手をつとめながら銅版画作家として美術界にデビュー。

 大学の助手時代に大学紛争を体験。「群れと個」という問題意識にたち「孤独な祭り」(1970年)でその終結を作品化し、その後「白い部屋」(1971年)「剥離される風景」(1972年)「囚われる風景」(1973年)「囚われる日々」(1974年)にも受け継がれて行く。「自分が社会や仲間、自分にむけてメッセージを投げかけて」『閉塞的な情況を風景として表していた」と振り返る。

 1975年から1976年にかけ、文部省の在外研究員としてパリ、ハンブルグ、ニューヨークに研修し、帰国直後、恩師の駒井哲郎の死去で、後の「転位」シリーズにつながる「師・駒井哲郎に捧ぐ」を制作。「ぞれまでは状況の中で自分はどうあるべきかを絶えず考えていたが、もっと基本的なことがあるのではないか。それらをきっぱり捨てて、残ったのが物質そのものだった」として、1977年から「Position」シリーズを制作。1979年からの「Transposition」「転位」シリーズに繋がって行く。

 このころのことを中林は「はじめは社会や環境への自身の浮遊感を埋めるべく、足元の〈地〉を見直すという仕事であったが、しだいに白と黒に代表される二律背反の拮抗と調和を、腐蝕銅版画の工程・技法(しくみ)にからめて描くようにもなった」と回想する。

 75年にほるぷ出版が企画した『日本の詩」に端を発した金子光晴の詩と中林の版画作品の組み合わせによる『大腐爛頌』は、中林作品を読み解く上での重要な詩画集である。

すべて、腐爛(くさ)らないものはない!
谿(たに)のかげ、森の窪地、うちしめった納屋の片すみに、去年の晴衣(モード)はすたれてゆく。
骨々とした針の杪(こずえ)を、饑(う)えた鴉(からす)が、一丈もある翼を落してわたる。

 という冒頭ではじまるこの詩を読んだ時、「それまで地球全体の状況がひとつの終局に向かって動いているという気持ちをずっといだきつづけていた」という中林は、その詩から受けるビジョンと、気持ちがピタリと一致したという。

以来、この『すべて腐らないものはない』という世界観が、すべての中林の作品のテーマとして背景に流れている。

 「中林忠良・銅版画集」(レゾネ)で著名な美術評論家の小倉忠夫は、「中林は、銅版腐蝕の詩人であり思想家である。自然をよく観察し、強く呼応させながら、手と眼で腐蝕銅版画という思想を紡ぎだていく作家なのである」と述べている。

インタビュー

(2014年4月17日 埼玉県ふじみ野市 中林先生宅にて)

版画の海へ漕ぎ出した自家製プレス機

−「本日は宜しくお願い致します。」

中林「はい、よろしくお願いします。」

−「制作はすべてこちらでされるのですか?」

中林「小さいサイズのものはこちらで行い、大きなサイズの作品は蓼科のアトリエで刷ります。あちらには大きなプレス機もあります。あ、版を作る仕事は全部こちらでします。」

−「ああ、いつか是非蓼科の方も見学させて下さい。」

中林「夏に来れば流しそうめんをごちそうしますよ。」

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アトリエ風景

アトリエ
インテリア

中林忠良先生のアトリエは埼玉県ふじみ野の閑静な住宅街にあった。アトリエ内は非常にスタイリッシュな空間で、バリアフリー化されたフラットな玄関スペース、靴の着脱がやりやすいようにと壁に仕込まれた足置き台の金具、壁には制作に使用された銅版原版など、ご自身で工夫して自作した『作品群』が、至る所で主人の暮らしを快適なものにしている。

シンク
ガラスの扉

「日曜大工」の域を超えている大工の腕をお持ちの先生のお宅は、様々な家具や道具が手作りで、(来客者が来た時に腰掛けるベンチから引き出しの取手の鋳物まで)とうとう私は便器くらいしか既成品を見つける事はできなかった。なにせトイレのシンクまで手作りなのだから。

先生のアトリエの壁には部屋を囲むように本棚が備え付けられている。勿論その本棚も特別に注文して作らせた金具で吊られている。年代順に整理されている画集やカタログの、その本当に最後の方にちょっとだけ私たちが中国で携わった展覧会のカタログが数冊並んでいるのを見て嬉しくなった。

夫人と